寺院案内
about Takaradera
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宝積寺について
当宝積寺(ほうしゃくじ)は、神亀元年724年、聖武天皇の勅願により行基によって開山され、聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」を祀っております。
通称は「宝寺」(たからでら)。商売繁盛のお寺として知られています。
宝積寺は山崎の戦いの際に、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が本陣を置いた寺でもあります。
- 宝積寺(ホウシャクジ:大山崎銭原)
- 真言宗智山派
- 山号 天王山
- 本尊 十一面観世音菩薩
- 通称 宝寺(タカラデラ)
養老7(723)年11月23日、龍神が唐土より万宝第一(何事も叶う)の打出と小槌を我国に伝来されました。
神亀元(724甲子)年、聖武天皇は夢に出現した龍神に打出と小槌を授かり、祈願すると天皇に即位したと伝えました。
神亀年間(724~29)、聖武天皇の勅願で行基が宝積寺を建立し、打出と小槌を奉納されました。
しばらくして御本尊大黒天神を印度よりお招きし、お祀り申し上げました。以来、財福・繁栄・増進の神様と崇められ、打出と小槌の加持を求める御信徒が、大勢参詣されております。
当寺は、木津川・宇治川・桂川の三川合流を望む天王山中腹にあり、延暦三年洪水にて橋が流出したとき、一人の翁が現れ水上を歩くと神通自在の下、見事橋が復元されました。一条の光明と共に当寺厨子内に至られました。以来、当寺の本尊十一面観世音菩薩が翁に化身されて、橋を掛けられたとの評判がたち、橋架観音と呼ばれるようになりました。本堂に十一面観音を祀っております。
また、行基が淀川に架けた山崎橋の橋寺として開創した山崎院が前身とも言われております。
長徳年間(995~99)、寂照が衰退していた当寺を中興、堀川天皇、貞永元年、火災により諸堂焼失。後小松天皇嘉慶二年勅願所となりました。
天正10(1582)年の山崎の合戦、元治元(1864)年の蛤御門の変に於て、当寺へ陣地となり戦禍を蒙り伽藍は一時荒廃しました。
重要文化財・三重塔は、天正12(1584)年、秀吉公が一夜で建てたともいわれています。相輪頂まで総高は約20m。
宝積寺は歴史の重要な舞台であり、どの時代にあっても現世利益の信仰はすたれることなく、今日もなお興隆の一途を歩んでおります。
山崎城について
山崎城(宝寺城)は、本能寺の変の後、秀吉対光秀の山崎の戦いの後、清洲会議で山城国を手に入れた秀吉が天王山頂に建築した城で大坂城を築くまでここが秀吉の本拠地でした。
秀吉以前にも天王山は南北朝時代から絶えず戦が続き、砦や小規模な城も点在していました。
大坂城完成後、秀吉は大阪へ移り、山崎城は廃城となります。
山崎城は鳥取尾山城、天王山城、天王山宝寺城、宝寺城、山崎宝寺城、宝積寺城などとも呼ばれました。
山崎は古来より交通の要所であり、重視された拠点で、山崎城主・薬師寺国長を破った細川晴元は、1538年3月に山崎城を自ら改修し、京都と芥川山城の繋ぎの城としました。
豊臣秀吉の山崎城は、宝積寺も城の一部となりました。
1864年、禁門の変では尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地となりました。
山崎城は、一時的とはいえ仮にも羽柴秀吉(豊臣秀吉)の居城となった城です。大坂城が完成するまで、豊臣秀吉は本拠地としていました。
宝積寺から山崎城跡に登れます。
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